中陰の花
文芸春秋
玄侑宗久
ISBN 9784163205007
現役僧侶が生と死の間を見つめて選考委員全員の支持を集めた
芥川賞第一二五回受賞作
「人は死んだらどうなんの?」
「知らん。死んだことない」
「あんた喧嘩うってはんのか?お通夜とかでなんか言わはるやろ」
夢はそこで終わった。胸元にかいた汗がまだ乾いておらず、
シャツが冷たく重かった。
則道はゆっくり体を起こすと布団の上に立ちあがり、
圭子の寝息をたしかめてから階下へ降りた。
階下といってもそこは二階である。二間幅の、
高さ六十センチほどの窓から、池の睡蓮の花が今にも開きそうな様子がみえた。
水面には初夏の青空が、ちぎられた色紙のように浮かんでいた。
そろそろ三階の屋根裏に寝るには暑い季節だ。
しかし古いお寺の庸裡だから贅沢は言えない。
則道はそう思ってシャツを着替えると、もう一度階段を登り、圭子の隣に横たわった。
則道はすぐに今し方の夢をぼんやり憶いだし、
そしてなぜかウメさんのことを憶いだしたが、
夢がどんなふうにウメさんと関わっているのか判らなかった。
ウメさんは病院で今ごろ生死の境にあるはずだった。
さっきの老人は数年前に亡くなったウメさんの旦那さんなのか…・。
だとすればあの子供は、…・もしかすると自分なのだろうか?
則道はまだ幼稚園にも行ってない頃、毎日のようにウメさんの家に行って
覚えたての舎利礼文や般若心経を唱えたことを憶いだした。
則道は「虫の知らせ」という言葉を思った。
そして、ウメさんは今日、やはり予言どおり死ぬのだろうかと思った。
五月九日という一度日の予言はからくもはずれたが、
蘇生したウメさんは再び同じ月の二十九日に死ぬと言い放った。
それが今日なのである。
ウメさんのような人が世間ではおがみやと呼ばれていることを知ったのは
随分あとのことだが、予知能力というのか、仏教では神通力と呼ばれる
不思議な能力がウメさんにはあって、則道が子供の頃から遠く近く
様々な悩みごとが持ち込まれていたようだ。
その人々が信者さんと呼ばれていることも、則道は僧侶になってから知った。
(本文「中陰の花」より)
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