平成10年4月2日にオープンして以来今年の2月末
現在395万人の入館者を迎えることが出来ました。 計画当時は一年間に30万人を予定していたのに比べると 初年度は約9倍の人が訪れたことになります。 明石海峡大橋の開通や景気が悪かったことで、日帰り旅行が多かったこと、 団体旅行をターゲットに旅行会社にPRしたこと等が効を奏したと思います。 これからは一過性の観光施設から、国指定の天然記念物である野島断層を教材として、 地震発生のメカニズムや、防災についての学術資料としての 発信基地となるよう努刀しています。 被災した民家(メモリアルハウス)での震災体験を語り継ぐ「語りべ」の活動や、 セミナーハウスでの語りべや映像による集団学習といったことも大事にしております。 1月17日には震災5周年事業として、筑前琵琶奏者上原まりさんによる鎮魂の演奏や、 世界21か国、140人の地質・地震関係の学者と 一般住民 との交流会等を10日間実施しました。 参加した国々の学者から、この施設は運営も含めて世界一だと数々の賛辞をいただき、 これからもますますこうした学術発信の基地としての責任を感じている今日このごろです。
ジャパンフローラ2000で、今淡路島がにぎわっている。 連日、人・車・バスの大渋滞、島内の観光地・施設へ流れてくれたら…との大、 思惑も空振り、各地では客足の減少にガックリしている。 そこで、花・植物にちなんで三原郡に生まれて植物・生物の教育にカを注いだ人、 アンペイ先生こと、槌賀先生で表紙を飾らせて頂きました。 明治19年(1886〉三原郡賀集村(現・南淡町)に生まれる。 洲本中学校(生物好きは松沢重太郎=博物学教師の影響で、 生物を生涯の学問と定めて)−広島高師(現・広島大学)へ卒業後、 姫路、畝傍、宇治山田中学校を経て三重県下の中学校長を数校歴任・ 昭和11年(51才)校長の職を辞し三重師範学枚(現三重大学)の講師になる 「校長でいると雑事に追われて学力が低下する、1度師範で教えてみたかりた」と、 ・昭和19年(59才)一人息子が戦死翌年7月津市への空襲で孫と嫁を失う その後、良き養嗣子を迎えて安定 した生活を得た。 ・昭和20年兵庫県立三原高等学枚に招かれ、生物を教える。 自宅から1日も休むことなく、学校までの7キロを歩いて通った (肩にはカバンと胴乱を下げて) この頃から“どうらん先生”と呼ばれるようになった。 生物学者にふさわしいニックネームである。 植物標本、化石標本数万点、特に蘇苔類の研究で35種の新種を発見、 新種のコケには、ツチガマレゴケ、ツチガシッポゴケなど発見者の名が冠せられている。 教え子の思い出に週1回ノートの提出、怠ると授業が受けられないし0点がついた。 ノートは丹念に読まれ“べリー・グ ッド”とか、時には“アホ”と赤インクで記されていた。 授業は青空教室もしばしばで、解剖の時、各班々でカエル、 魚を持参することになっていたが、 ポケットに手を入れていると「お前忘れてきたんか、はよ出せ」 と頭をコツン、 ポケットから青大将を出し、先生の机1パイにのばした。 さすがの“オジイチャン”先生も眼を自黒、その後、どのようにされたのかは聞きもらした。
・昭和31年古稀記念に教え子から、研究室と研究材料を贈られた。 この時中学時代の学友・大内兵衛氏は、「徳孤ならず必ず隣あり」の祝辞を贈っている。 ・昭和46年(1971)86才で亡くなる。 三原高校の槌賀研究室に、安平の遺した植物標本や、著述類が保存されている。 (参考図書) 槌賀先生喜寿祝賀文集、三原文化を参考に出版された、 「ここに人あり」田村昭治著から頂きました。
安平先生の授業が受けられたこと、臨海実習に参加し撮影でさたこと、 花と人で一パイの淡路島、 この時に先生を紹介できたこと、教え子の一人として幸せ者です。 (Y)
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